同情とは違う
共感と同情は、外から見ると似ています。どちらも相手を気づかう言葉が出てきます。しかし、立っている位置が違います。
同情は、聴き手の側に立ったまま相手を見ています。「かわいそうに」「大変だったね」は、聴き手の価値基準で相手の状況を評価した結果の言葉です。悪いものではありませんが、そこで相手は「気の毒な状況にある人」として扱われます。
共感的理解は、相手の側に立って世界を見ようとします。この人の位置から見たとき、この出来事はどう見えているのか。どこが一番つらいのか。あるいは、周囲が思うほどつらくないのか。
同じ出来事でも、感じ方は人によってまったく違います。共感的理解とは、その違いを自分の想像で埋めずに、相手に確かめながら進む態度です。
「あたかも」を手放さない
ロジャーズは、相手の私的な世界を「あたかも自分のものであるかのように」感じ取ると述べ、この「あたかも」を失ってはならないと明確に書き添えています。
「あたかも」が外れると、聴き手は相手の感情に飲み込まれます。相手の不安が自分の不安になり、相手の怒りが自分の怒りになる。そうなると、聴き手はもう相手を支えられません。一緒に沈むだけです。
聴き手が保っていられるからこそ、話し手は安心して深いところまで話せます。冷たさではなく、支えるための距離です。
この距離を保つには、自己一致が必要になります。いま自分が飲み込まれかけていると気づけなければ、距離は取れません。3条件が互いに支え合っているのは、こうした関係によります。
「わかったつもり」がいちばん遠い
共感的理解を妨げる最大のものは、無理解ではなく、早すぎる理解です。
「その気持ち、わかります」と言われた瞬間に話す気をなくした経験は、多くの人にあります。似た経験をしたことがあるからこそ、聴き手は自分の記憶で相手の話を埋めてしまう。しかし、埋めた中身は自分の体験であって、相手のものではありません。
確かめながら進むほうが、結果的に速く近づけます。「それは、こういう感じでしょうか」と言葉にして返し、違えば相手が訂正してくれる。訂正されることは失敗ではなく、理解が一段進んだ合図です。
練習の仕方
- 「わかります」の代わりに、理解した内容を具体的な言葉にして返す
- 自分の似た経験を思い出したら、それを話さずに脇に置く
- 相手の感情に名前をつけて確かめる(「悔しい、に近いですか」)
- 訂正されたら、そこから聴き直す。訂正は前進だと考える
確かめる作業は、慣れないうちは回りくどく感じます。しかし、勝手に理解して話を進めるより、相手には早く届きます。
Next Step
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